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少女時代19

ごめんなさい、まるの日カフェのレポート中ですが、なんだかしんみりした気持ちになったので、今日は子供時代の事を書いてみます。



私は真っ暗なガレージにうつ伏せで横たわっています。

口にはガムテープが張られ、両手は後ろ手に手首のところで延伸テープでぐるぐる巻きに縛られています。

ごていねいに、足首まで延伸テープで縛られ、完全に脱走が出来ない状態にしたてられています。

いつものごとく、何か父親の逆鱗にふれ、しばかれた後、よくこうして車庫兼倉庫に長時間放りこまれていました。

小学四年生の1月の事です。

我慢できずに、尿を漏らしました。

出した瞬間は楽になりましたが、すぐに自分の衣服が濡れて、不快感が襲います。

人間の尊厳を冒された気分です。
当時の私には、そんな難しい言葉は思い浮かびませんが、惨めさがひしひしと押し寄せてきます。

さらに、不快感を通り越して、寒気が襲います。

助け出されるのは、おそらく数時間後。

それまで、どうやって自分を保つかが、自分に与えられた最優先課題でした。

頬を思い切りはたかれ、内側が切れて、口の中に鉄の味がします。

痛みと悔しさと恥かしさで、涙がこぼれますが、嗚咽をあげる事すらかないません。

口をガムテープで塞がれている以上、呼吸をするのは鼻のみ。

涙ぐんで、鼻水を垂らせば、たちまち呼吸不全に陥ります。

荒くなりがちな呼吸を落ち着かせる為に、自分に言い聞かせます。

「期待するな。お前の父親が心を入れ替えて、助けに来る事などはありはしないのだ。」

「絶望するな。悲しんで涙を流せば、呼吸がかなわなくなる。何事もないと思い込め。」

…今、思えば、これはガイドの導きだったと思います。

当時は、ただ、こうした状態になると、頭が冴えて大人びた考えが浮かぶものなんだなってぐらいの認識しかなくて。
この思考の主が自分か他者かなんて考える余裕が無かったですね。


ただ、アスファルトに額をのせて、じっとしています。

母親が助けに来てくれるのを、ただ待つのみ。

(何か他の事を考えよう…。そうだ、この間読んだあの本は凄かったな…。)

私が衝撃を受けたのは『荒野に猫は生きぬいて』という題の児童文学でした。

小学校の図書館で見つけて読んだのですが、なんというか…。

野生の雌猫が主人公の物語です。
幾多の困難、試練を乗り越えて、最後は老人の飼い猫に納まるのですが…。
この本は無常観がテーマの様な気がします。

(猫だってあんなに頑張ったんだ。
 火傷したって、仔猫を救いに行った。
 仔猫が死んでも、離さなかった。
 何度も生んだ仔猫が全部死んでも、生き続けた。
 人間の私だって、これくらい、平気だ。)

そう、気持ちを奮い立たせていると、すぐ隣の家から、親子のにぎやかな笑い声が聞こえてきます。

隣の家には同い年の幼馴染の女の子が住んでいて、同じクラスにいました。
当時の担任とは、PTAの役員決めで、父親とトラブルを起こしていた関係で、私は教師に冷遇されていました。
教師は私と他の児童が仲良くするのを妨害する為、クラスの児童たちに私を無視するようにと指示を出していました。

そうしてそれまで、保育園も一緒で、仲良くしていた彼女とも、クラスで口を聞いてもらえなくなりました。

仕方のない事だといえば、そうですが、とても寂しい思いをして、毎日学校に通っていた私は。
誰も視線を合わせず、言葉を交わすことも無く、授業中に手を挙げても、誰も手を挙げていないにも関わらず、あてられる事も無く。

完全に空気。それどころか、机の中にゴミが混入されているのが、日常の学校生活を送っていました。

そんな私の心のよりどころが、本でした。
たくさんの本を読み漁ります。そうして自分を慰めていたのでした。

隣の家の同級生は、色が白くて、髪の毛も、瞳の色も茶色くて、とても綺麗な女の子で。
あだ名は天使でした。
それに比べて、地味な私は、異星人とか、ばい菌とか呼ばれていました。

学校でも虐められ、家庭でも虐められ。
こういうのを泣きっ面に蜂って言うんだな…そんな事を考えていました。

(なんで、こうも違うんだろう。彼女はお嬢様で、天使と呼ばれて、皆に注目されて。
 私はこうして、地べたに這いつくばって、息を潜めているだけ。つらい。)

隣の家から、ピアノの調べが聞こえてきます。
ショパンのアリア。
美しい音色が、より一層、自分と彼女との落差を思い至らせ、惨めな気持ちに拍車をかけてきます。

隣人「アイー(←同級生の名前)こんな時間にピアノはよしなさい。
   先にお風呂に入って早く休みなさい。
   りんご、むいてあるから、お風呂から上がったら、食べなさい。」

アイ「うーん、でも、後、一曲だけ。」

私「…。」

仲睦まじい親子の会話が、よりわびしさを募らせます。

すると、彼女が次に弾いた曲は邦楽でした。
どこか哀愁の漂う、この曲には聞き覚えがある…。

山口百恵の『いい日旅立ち』でした。

『いい日〜、旅だち〜♪』

山口百恵の情感たっぷりの歌声が頭の中で蘇ってきます。

『…♪あぁ〜、日本のどこかに〜、私を〜待ってる〜人がいる〜♪』

思わず想像してしまいます。

私は背の高いスラリとした女性になっていて。
肌の色も白くなり、髪の毛もパーマをあてています。
お化粧もして、少し美人さんになった大人の私は。
こじゃれたワンピースを着て、トランクを片手に汽車で旅をします。
ここより、うんと遠いところ。
北海道か、沖縄か?
哀愁漂う、この曲には、南国は似合わない。
やっぱり北国、北海道がいいな。
女優さんみたく、帽子をかぶって。
見たこともない、綺麗なお花畑を見に旅に出るんだ。
そこでは、なぜか私をよく知っている親しい男性がいて。
私を歓迎してくれる…。


隣人「アイー!いい加減にピアノやめなさい。
   ご近所迷惑よ。」

アイ「はーい。もうやめにしまーす。りんご楽しみ〜。」

私「…」

(…楽しい想像だったな。)

そんな自分にふと気づきます。

さっきまで、暗くて、寂しくて、惨めな気持ちだったのに。
随分救われた気持ちになっていました。

(いつも、そうだ。
 心が、悲鳴をあげて、もうどうしたらいいのか分からない位つらくなると。
 いつも、何か救いがある。
 不思議だな…。私はどんな大人になるんだろう…。
 きっと、いつかこの経験も役に立つはず…なぜだか、そんな気がする。)

そう、静かに涙を流しながら、意識を失いました。



そうして、しばらく後に母親に揺り起こされて助け出されます。

彼女は涙ぐみながら、尿にまみれた私の服を洗濯機に入れてくれました。



それから、しばらくたって、ある土曜日の昼下がりに母親と話をしています。

『荒野に猫は生き抜いて』のラストシーンが納得いかない、と母親に文句を言っています。

私「でね、やっと幸せになれたと思ったら、その猫はね、車に撥ねられちゃうのよ。
  そしたら、おじいさんは注射を打って、その猫は死んじゃうの。酷くない?」

母「安楽死ね。」

私「アンラクシ?何ソレ。」

母「もう助からないと分かっている者を、それ以上苦しませない為に死なせる事よ。」

私「えぇ〜!酷くない?」

母「ヒドイかもしれないけど。優しくもあるのよ。
  誰だって苦しみ続けるのは嫌でしょう?
  それに自分が相手を死なせるのよ?その方がつらいと思うわ。」

私「でも、死にたくないよ。死なせるのは嫌だよ。」

母「しんじゅ☆♪ちゃんは、まだ子供だからね。
  大人になったら、そういう決断をする時もあるのよ。
  今から考えておくのはいい事だと思うわ。
  死は誰にでも訪れるものだから。」

私「えー、ヤダヤダ。絶対やだ。死にたくない。」

母「いずれ、嫌でも考えなきゃいけない時が来るわよ。」

私「えぇ〜?今日のお母さん、辛口〜!」



そんな会話をした、一年半後、母が亡くなります。
ガンでした。
41歳という若さ故、進行が早く、気づいた時には、もう手遅れでした。

それは、父の優しさだったのかも知れませんが。
助からない、という事実は私達子供には知らされておらず。

母は、しばらく入院したら、元気に帰ってくるものだと思い込んでいた私は。
患者を疲れさせてはいけない、という父の言葉に従って、週に2・3回程度しかお見舞いをしていませんでした。


そしてある日、急変の知らせを受けて、夕方市民病院に駆けつけます。
その深夜、病院の廊下のソファで弟と一緒に眠り込んでしまい。

叔母に揺り起こされて、母が亡くなったと知らされたのでした。

母の体は亡くなる直前から、肌のつやを失い、まるで蝋人形のような感じで。
顔の下の骸骨の骨格が読み取れるほどに、痩せこけ。
体からは、えもいわれぬ匂いが立ち込めており。

最期には腹水がたまり、まるで飢餓難民のように腹が膨れ上がっており。
大量のモルヒネを投与し、それでも苦痛が治まらないという事で、腹に管がつながれ。
そこから腹水を取り出しつつ、ベッドサイドにはそれがたまったパックがぶら下り。

痛みが随分楽になったと喜んでいた、半日後に亡くなったのでした。

医者は、腹水を抜く時点で患者の死を予告しており、あまりにも苦しむものだから、患者の要望でそうした、ともらしていました。

暗い廊下から、明るい病室に入ると、せまい個室に親族が密集して、嘆き悲しんでいました。
まるで病室内に目に見えない湯気が立ち上がっているかのように視界がグラグラする中。
こんな事なら、毎日お見舞いに行けばよかったと私は今更ながら、後悔しました。

すると、病室の母親の枕の下から、紙が出てきました。

その紙には、私達、家族を含め、親類や友人、近所の知り合いの人達の名前が書かれており。
各自に短いメッセージが書き添えられており。

最後に『皆、仲良く、幸せになりますように…。ありがとう。』と書かれていました。

母は、毎日子供達に会いたかったはずなのに。
きっと、その紙を毎日眺めて、我慢していたのでしょう。

(なぜ、毎日会いに来なかったんだ!
 別れてしまうだなんて、考えたくなかった。
 もう、お母さんに会えないなんて…。
 あんなに、暴力をふるわれていたのに、お母さんはお父さんを許していたんだ。

 あたし、きっと役に立つ大人になる。
 うんと勉強して、まわりの人の役に立つ大人になるよ、お母さん。)

そう、泣いた事を思い出したのでした…。



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