父「おい!しんじゅ!まだ生きていたのか!
早く死ねっ!お前が生きているだけで、金がかかる。
この親不孝者。親を助けると思って、早く死ぬのが、子の務めだ!
このガキ、無視かっ!死ねっ!」
学生鞄の取っ手を強く握り、表情を変えずに、セーラー服姿で足早に父親の前を通り過ぎます。
学校から帰宅して、お店の中を通り抜けて自宅へと上がるには、どうしても店番をしている父親の前を通り過ぎねばならず。
私を見つける父親の開口一番の挨拶が、だいたいこんな感じで。
中学2年生の、これが、私の日常でした。
いつもは、感情を押し殺し、何事も無いように通り過ぎて、日常の生活に戻るのですが。
その日は、臨界点を越してしまいました。
目に涙をためながら足早に階段を上がり、スリガラスがはまった障子戸を開けて、自分の部屋に飛び込み。
畳の上に、学生鞄を投げ捨てます。
そのまま隣の仏間の障子戸をスパーンと勢いよく開けて、午後の日差しを受けて輝くガラス戸を一気に引いてベランダに躍り出るます
そうして、高さ1mちょっとの黒いペンキ塗装がされた、手すりにつかまり、そのまま体を浮かせて手すりに足をかけるます。
(もう、限界だ…。
今日は殴られなかったけど…。
もう、こんな生活、耐えられない…。
私はマネキンじゃない。
血の通った人間だ!
何を言っても、傷つかないとでも思っているのか!
もう、嫌だ。
もう、なにもかも嫌だ。
死んでやる!
それも、ここで、あてつけで死んでやる!)
そうして、ベランダから、地上を見下ろすと、砂利混じりのコンクリートのでこぼこした地表が見えます。
(ここから、落ちて死ぬとなると、相当打ち所が良くないと死ねない。
頭からまっさかさまに落ちるだけでは、頭がい骨骨折だけで、うまく死ねない。
手すりにつかまって、腕で反動をつけて、勢いよく、脳天をぶつけなければ…。)
金属製の柵状の手すりにつかまりながら、手が震えてきます。
午後の日差しを受けて、黒色の手すりは温かく、涙でにじんで見えました。
(もう、嫌だ。
辛すぎる。
いつも殴られてばかり。
お風呂も水だ。
給食費をもらうたびに何十分も殴られる。
ご飯も十分に食べれない。
気が休まらない…。
疲れた…。
もう、この世からおさらばしたい…。
もう、何もかもが嫌だ…。
…死のう…。)
再び、手すりを強くつかみ、両足でベランダの床を強く蹴り上げて、手すりの上に上半身を乗り出すと、キーンと金属音が頭の中に鳴り響き、めまいを覚えます。
私はストン、とベランダに着地して、腕を組んで手すりの上に乗せる様な格好で柵に体をもたせかけます。
(これが、この世で最後に見る風景か…。
ちょっとだけ、見ておこう…。)
涙でぬれた瞳で、道路の反対側の家をぼんやりと見つめます。
青い瓦屋根の木造家屋。
雨戸が閉まっており、あちらの住人がこちらを覗く心配はなさそうでした。
遠くで、カキーンという野球のボールと金属バットのぶつかる音が聞こえます。
かすかに、オーライ、オーライという掛け声も。
おそらく、私が通っている中学校の野球部の練習の音でしょう…。
どこかからか、幼い子供の歓声も聞こえます。
キーコ、ばったん、キーコ、ばったん…。
公園のシーソーで遊ぶ幼子のキャッキャッと弾ける笑い声。
小鳥が羽ばたき、木の枝にバサリととまる音。
パキ、ペキ、ピチチチ…。
ゴトンゴトンと大型トラックが少し離れた公道を走り去る音…。
いつもと変わらぬ日常。
しかし、いつもは気づかない生活音。
ずいぶん、遠いところの音まで拾えていたようでした。
秋の日差しの中、三つ折りの白い靴下でベランダに佇む私の足元からもタイルに宿っていた熱がほんのりと足の裏に感じます。
その時、何気ない日常の、何気ない光景が、とても、ひどく、美しく、感じました。
手がブルブルと震え、胸がドキドキしてきた私は。
結局、どうにも、つらい気持ちが迫ってきて、グイッと強く手すりを掴みます。
(色々考えるから、ちゅうちょするんだ。
もう、一気に乗り出して、落ちてしまえばいい…。)
私は柵を乗り越えて、その上に足をかけます。
後は大きく飛び出すだけ…。
頭がクラクラして。
首元の血管がドクドクを激しく脈を打ち。
胸元はグラグラと煮立つように何かが激しくうごめいていて。
耳元の後ろの毛細血管を血液が流れる音が、ジュンジュンと聞こえ。
喉がひりつき、自分の呼吸音が、ヒューヒューと音を立てていることに気づき。
胃がひきつれる感覚がして。
頭の中に、再び、キーンという金属音が聞こえてきます。
すると、一瞬一瞬に浮かび上がるビジョン。
中学の友人とのやり取りや。
小学2年の夏休みに海に行って嬉しかったことや。
小学6年の時、親戚の人に連れられて行った山で見た綺麗な草花や。
兄弟達で、お母さんの作った梅酒のウメの実をとり合ったりとか。
布団を屋根に干して、取り込む時に階段へ布団を落として、滑り台のようにして遊んだ日曜日の午後とか。
「どうして人は動物を食べなくちゃいけないの?」と尋ねた私に優しく教えてくれた母の顔や。
(………。)
私はズルズルと手すりから降りて。
そのままフラフラとガラスがはまったサッシ戸に背中をもたれかかるようにして。
タイルの床に足を投げ出して、茫然と座り込んで黙って泣き続けました。
頭がクラクラしましたが、もう、キーンという音は聞こえなくなっていて。
胃や胸がギュウギュウと苦しかったのですが。
その痛みが臓器達の、生きている事への喜びの様に感じました。
(…死ぬ勇気もない、か…。)
ペタリとタイルに手を置くと、ほんのりと温かく。
だらりと力の抜けた両足にも、タイルのほんのりとした温かみが伝わってきました。
(…温かいな…。お天道様にあたったからかな…。
物でも、人でも、太陽は暖かい…。)
母「お天道様が、ちゃーんと見てるんだからね。
悪いことも、いい事も。
みんな、まわりまわって、自分に還ってくるんだよ。」
(…お母さん、死んじゃって…。
お母さんが生きていた頃は、お店も景気が良かったから。
こんなにお父さんが暴力を振るう事もなかった…。
お母さんが生きていたら、私達が学校に行っている間、お母さんが殴られるから。
お母さんは、いい時に死んだな…。
死んでてよかった、お母さんにつらい思いをさせずに済んだ…。
それでも、時々恨めしく思う…。
なぜ、お母さんはお父さんを選んだの?
こんな父親、嫌だ…。
でも、死ねなかった…。
ハァ…。)
私は脱力して、ベランダにへたり込み続けました。
次第にめまいも収まり、呼吸も楽になってきていました。
(無力だ…。
…死んだと思おう…。
非力だ…。
力をつけよう。
死んだと思えば、後はどうでもいい。
私には、何もない…。
絶望的だ…。
頭も良くなければ、人を惹きつける才能もない。
姉さんの様に、美人でもないし、友達もたいしていない…。
お金もない、稼ぐことができる大人でもない非力な子供だ。
家は貧乏で、親にいつも虐められる。
何もない…。
けど、可能性がある。
今は力が無いだけ。
なら、力をつけよう。
まずは、勉強を頑張るんだ。
社会に出るには、中卒では、不安だ。
高校に進学するんだ。
その為に、成績を良くして、自分の可能性を広げるんだ。
友達がいないなら、高校に入ったら、友達を作ろう。
真心込めて付き合うんだ。
ウソはつかない。
本当の友達を作るんだ。
お金のない、私にとって、きっと友人が財産になる。
今は体が小さくて、お父さんに髪の毛を掴まれて引きずられると、逃げ出せないけど。
きっと体が大きくなる。
背も高くなる。
大人になって、お化粧すれば、きっと綺麗な女の人になる。
想像するんだ。
何も持っていない、今の私にできるのは、強くイメージする事。
なんか、どっかの宗教のチラシに書いてあったな。
創造主がどうとか、こうとか。
私が未来を創造するんだ。
私が私の主。
負けるな。
諦めるな。
今、死のうとしたじゃないか…。
もう、怖いものは、ない。
もう、頑張るだけだ…。)
ハァ〜ッと大きくため息をつく。
なんだか、目に見えない、温かい、透明なドームの中に自分がいる様な気がしました。
父「おい!何をやっている、しんじゅ!
店を手伝え!このゴクツブシがっ!」
私「は〜い!後で行きます。」
店番から、自宅のトイレに入った父親が、階段下を通り過ぎながら、罵声を浴びせてきましたが。
まだ、店を手伝う時間帯ではないので、嫌がらせに怒鳴っているだけでした。
ベランダから仏間にあがると、ガタガタと体が震えてきて、畳の上にへたり込みます。
自分で自分を抱きしめて、そのまま横になります。
やはり、精神的な動揺が激しかったようでした。
(…寂しい…。
誰かに、抱きしめて欲しい…。
もし、私が姉さんの様に美人だったら。
もし、私が兄さんの様に頭が良かったら。
もし、私が弟の様に、愛嬌があって、才能があり、人目をひく人間だったら。
私はお父さんにかわいがられていたんだろうか。
私がみっともなくて、頭が悪くて、何も才能がないから、お父さんに嫌われるんだろうか。
どうして、こうもダメな人間なんだろう…。
誰かに愛してほしい。
誰かに必要とされたい。
寂しい…。)
しばらく、畳の上で涙を流していると、少しウトウトしかけていました。
脳裏に担任の教師の牽制するような眼差しと、数学の教師に不釣り合いなセリフが蘇ります。
担任「民事不介入だ。
家族の問題は家族で解決しろという意味だからな。
お前ならこの意味わかるだろう?」
父親の機嫌のいい時に給食費を催促したら殴られないのでそれを見計らう為に、私は給食費をたびたび滞納しており。
ノートを買うお金が無くて、一冊のノートで他の教科を兼用して、たびたび課題の提出ができなかったり。
水風呂を敬遠して、お風呂に入ったり入らなかったりで、薄汚かったり。
顔や手足などの、目立つ場所は痣になるので殴られなかったのですが、タウンページで頭を殴られるのをかわした関係で、私の首筋に痣ができる事もあり。
担任の教師は私の脳天にカサブタが張り付いているのを発見した数日後。
うすうす私の家庭の事情に気づいて、そう言ったようでした。
父「しんじゅ!早く店を手伝えと言っているだろうがっ!
役立たずの、貧乏神めっ!」
私「ハッ!あ、はい、今行きます。」
階下で怒鳴っている父親の声で目を覚まし、とっさに大きな声で返答をしてから、ベランダへと視線を巡らせます。
私は靴下のまま、ベランダへと飛び出し、手すりに捕まり、地表を見下ろします。
そして、弾かれたように、玄関へと走りだし、スニーカーを片手に再びベランダへと戻ります。
父「しんじゅ!何をやっている!」
私「すぐ行きます!」
父親の怒鳴り声をかわし、ベランダでスニーカーを履いて、手すりを乗り越えます。
(…小学生の時見た保健室だよりのプリントで。
高さ4mの場所から飛び降りると、足首にかかる負荷は体重のおよそ8倍だと書いてあった。
私がこのベランダの柵の下の部分につかまると、足元から地面のコンクリートまで、およそ1.6〜1.8m。
4mの2分の1以下だから、足首にかかる負担は体重の4倍以下だけど。
地面から足元までの距離に対して、加速度的に負荷がかかると考えれば。
足首にかかる負荷は2倍から3倍で収まるハズ。
今の私の体重が33kgだから、3倍でも99kg。
これぐらいの体重の人間は実際にいるし、飛び降りても骨折しないんじゃないかな?
圧力は接する面積が小さいほど強くなると理科の時間に習ったから。
地上に着地したとたんに、足の裏だけでなく、両手で体重を受ける。
そうすれば、足首の骨折のリスクは下がるハズ。
これって、柔道の受け身と同じ理屈じゃないかな?
勉強を頑張ると言った所で、帰宅すれば、ほとんど家事やお店の手伝いで一日が終わってしまう。
勉強する時間がないから、どうにかしないとと思っていたけど。
ここから、脱走して、図書館に行けば、勉強がはかどるんじゃないかな?
問題は怪我しないかだけど。
コンクリートの表面が荒くて、手をすりむきそうだな。
先にに段ボールとか、発砲スチロールの粒でもまいておくか?
いや、摩擦係数が下がって、かえって危ない。
ここは、擦り傷覚悟で飛び降りるしかない。
さっき、自殺を考えたんだ。
怖いものはない。
ここで、怯んでいては、自分の未来を切り開けない。
担任のあのセリフは家庭内の問題を学校に持ち込むなというメッセージだ。
私が家で問題があると分かっていて、見て見ぬふりを決め込んだんだ。
たいして成績のよくない、私に本気で関わる気もないと、切り捨てられた。
親を信用しない。
教師をアテにしない。
親の暴力を警察に訴えたところで、家は客商売だ。
余計に稼ぎが悪くなって、兄弟達と一緒に暮らせなくなってしまう。
近所の人に言った所で結果は同じ。
一時しのぎにすぎないし、最後まで面倒を見てくれるはずもない。
自力でなんとかするしかない。
親には表面上は服従するが。
背面では私が主だ。
ここが正念場だ。
アタシは諦めない。
アタシはやる。)
そうして、私は手すりの下の部分を掴んで、体を宙に浮かせ。
強く鼓動する心臓を落ち着かせるようにして、集中し。
そっと手を放して、地面に着地しました。
地面に強く両手を打ち、それだけでなく、ひじまでビタンと打ちます。
(やった!足首がジーンとするけど、大丈夫だ!
部活で鍛えているから、筋肉も痛んでいない。
長そでを着ていたから、擦り傷もない。
これなら、いける。
もう、親の言う事だけを聞いたりしない。
あの男をぶっ殺してやろうかと思ったけど。
急がば回れ、だ。
犯罪者になっては、私の可能性が縮まるだけ。
とにかく学校に行かせてもらって。
社会に出て、お金を稼ぐ。)
父「しんじゅ!いい加減にしろっ!」
私「ここにいるよ、お父さん。」
私は車庫を通り抜けて、お店に顔を出し父に声をかけます。
父「お前、いつの間に。」
私「さっきから、いたよ、お父さん。
遅くなってごめんなさい。」
…そうして、私はたびたび自宅を脱走して、図書館で勉強し、成績を上げたのでした。
この体験が、後に私の精神世界へ大きく影響を及ぼすことになります。